2

「よ……――良かった、な」

俺は異常な渇きを喉に覚えながら、なんとかそれだけ言えた。
今の自分がどんな表情をしているのか分からない。
それぐらい筋肉は硬直して身動きがとれなかった。

「お、おおおっ。良かったっ!祝福してくれるかっ」
「あっああ。当たり前…だろ。お、おめで……とう」

すると浩平の顔は一気に緩んだ。
こっちの気持ちには気付かず、グラスにビールを注ぐ。
そして俺に飲むよう促した。
あれだけの緊迫した雰囲気が変わる。
だがその変わりようについていけなかった。
強風に跳ね飛ばされたみたいにみんなの会話が遠くに聞こえる。
(結婚――そうか、浩平は結婚するのか)
なぜか耳を塞ぎたい気分になった。
これだけ賑やかな夕食だというのに、俺はひとりだけ孤独を感じていた。
鈍った思考は回復せず、いつまでも伝達は遅れる。

「相手はホラっ、前に写真で見せた子だよ」
とか。
「甲斐性なしのこの子が結婚なんてねえ」
とか。

無神経な音だけが脳に響いた。
忘れていたはずの痛みが蘇って苦しくなる。
(なんで俺、こんなところに来たんだろう)
直接会って話したいという言葉に僅かな期待を抱いたのは嘘じゃなかった。
会いたくない、戻りたくないと思いながらここまで来てしまったのは、心のどこかで“もしかしたら”と希望を持っていたからだ。
(あるわけない。あるわけないじゃないか)
唇を噛み締めて、ぐっと堪える。
じゃないと何か余計なことを言ってしまいそうだった。
徐々に現実味を帯びてくる彼の言葉に、真綿で首を絞められているような息苦しさを覚える。
それを悟られないようにグラス一杯に注がれたビールを喉の奥に押し込んだ。

「おめでとう、浩平」

哀れな道化に涙は枯れる。
自分でそう言いながら心が死んでいくのを感じていた。
だからってどうしようもない。
行き場をなくした感情だけが空回り続けた。

――それからの記憶はない。
俺は馬鹿みたいに飲んで潰れた。
大学の飲み会でも潰れたことはなかったのにあっさり意識を手放した。
時間と共に癒えていた傷が噴きだす。
それは新たに傷つけられるより酷なことだった。
弄繰り回された古傷にのた打ち回りたくなる。
俺はその中で夢を見ていた。
引っ越す前日の夢だ。
あの頃の無邪気な二人は指を絡めて約束をする。

「きっとまた桜の下で会おう」

風が吹いていた。
桜の花びらが散っている。
白い小さな花が風に吹かれて舞っていた。
雪の重みに枝がしなる。
樹齢何百年の桜はずっとこの街を見下ろしてきた。
ひとりぼっち、季節はずれの桜を咲かせて大地に根を張る。
(考えてみれば悲しい話だな)
独りぼっちの寂しさは誰より知っている。
たった九年でこんな気持ちになるのに、どれ程の季節をひとりで見つめ続けたのだろうか。
それだけで無性に泣きたくなった。

「……ん…ぅ……」

するとその時だった。
ふっと意識が戻った俺は見慣れない天井に気付く。
ぼんやりとした頭で体を起こすと鈍痛が走った。
そこで酔いつぶれて眠ってしまったことを悟る。
(痛っぅ……きもちわりい)
胃がムカムカする。
頭が痛い。
体が重くて軋んだ。
俺は額を押さえながら上半身だけ起き上がる。

「…………ん?」

するとベッドサイドに春平が眠っていた。
横にもならず、ベッドに肘を付いたままこっくりこっくりしている。
(まさか看病していたとか?)
何も羽織らずパジャマしか着ていなかった。
その格好ではさすがに寒いだろう。
だが俺は状況が掴めなかった。
思い出そうにもヤケ酒した記憶しかない。
コイツはといえば、ジュースを飲んでいたとか、母親から野菜も食べろと注意されていたことしか覚えていなかった。
時計を見ればもう午前三時を過ぎている。

「はぁ……やっちまった……」

なんたる醜態か。
ショックだったとはいえ、他人の家で酔いつぶれるなんて最低である。
しかも九年ぶりに再会した幼馴染の家でだ。
あと四日も過ごすのに気まずいことこの上ない。

「ん……おーと…さん…?」

すると小さな声が聞こえた。
頭を抱える俺にその声が届く。
ふと下を見れば春平が目を擦りながらこちらを見ていた。
寝ぼけているのかうつらうつらしている。

「ふぁ……ぐあいはわるくないですか?」

すると下から覗きこんできた。
寝起きだからか、あまり呂律が回っていない。

「あ、ああ。悪い」

(なんでコイツがここにいるんだろう)
辺りを見回せば六畳ほどの部屋だった。
ここはきっと浩平の部屋の隣にあったゲストルームだろう。
だがどうして浩平の弟がいるのか分からなかった。

「僕ビックリしましたよ」
「え?」
「ヘラヘラ笑っていたかと思えば突然ぶっ倒れて、挙句気持ち悪いってうずくまり始めたんですから」
「あー……はは」

俺にはその時の記憶が一切なかった。
彼の言葉に想像しながらガックリ項垂れる。
せめて脱いだり暴れたりしなかっただけ、マシだったのかもしれない。

「気分はどうですか?」
「別に……ちょっと喉が渇いたかな」
「分かりました。じゃあお水を持ってきます」
「あっ」

すると春平は立ち上がった。
そのまま廊下へと消えていく。
思ったより機敏に動く彼に止めることすら出来なかった。
俺はひとり残された部屋の隅で髪を掻きあげる。
(……何、やっているんだろう)
酒が残った体は重い。
辛うじて手が届く窓辺のカーテンを掴んだ。
一気に引けば、外の銀世界が顔を出す。
途端に部屋は明るくなった。
月明かりが雪に反射して街全体をおぼろげな光で包む。
空を見上げれば東京では考えられないほどの星が輝いていた。
まるで光の洪水。
連なる星々の煌きは穏やかに俺を照らしている。
(この街の星はこんなに美しかっただろうか)
東京で見上げた空は黒く濁っていた。
聳える高いビルが辺りを囲み、その狭さを知る。
いつからか空を見上げることもなくなった。
なにひとつ心を躍らせるものなどないと気付いたからだ。
都会の人工的な光の前では全てを黒く塗りつぶされてしまう。

「あ、あ、あのっ……」

すると後ろから声を掛けられた。
振り返ればお盆の上にグラスを置いた春平が俺を見ている。
彼は遠慮がちにベッドへと近付いてきた。

「ありがとう」

俺は差し出されるがままグラスを手に取る。
そしてぐいっと飲み干した。
渇いた喉に潤いが戻る。
その冷たさに頭が冴えていくようだった。
酔いつぶれたあとの水ほど美味い飲み物はない。
まるで灼熱の大地に現れたオアシスのようだった。

「ぷはっ」

俺は凄い勢いでグラスを空にすると口許を拭う。
そして深く息を吐くとようやく落ち着いた。

「ごめん」
「え……?」
「みんなに迷惑掛けただろ。浩平何か言っていた?」

バツが悪くて苦笑する。
すると彼は首を振った。
目を泳がせてモジモジしている。

「兄ちゃんは相変わらず面白いヤツだって笑っていました。お父さんも。お母さんは心配していましたけど……」
「そっか」

俺は三人の姿を思い出しながらもう一度自嘲気味に笑った。
明日は朝一番に起きて謝らなければならない。
(っていうか、もう帰りてえな)
どうして自分がここにいるのか理解出来なかった。
これなら何もなくとも東京にいた方がマシである。
何よりこれから四日間もここで過ごさなければならないことに後悔していた。

「ホント悪かった。お前も、もう部屋に戻れよ。俺は大丈夫だから」

とりあえず今はひとりになりたかった。
放っておいて欲しかった。
何より冷静に考える時間が欲しかったのかもしれない。

「そ……」

だが春平はいつまで経ってもそこから動かなかった。
それに鬱陶しさを感じながら背を向ける。
気遣う余裕すら持てずに無視をしていた。
もうどうでも良かったのかもしれない。

「……そんなに、兄ちゃんが好きでしたか」

すると春平はそう呟いた。
声が僅かに震えている。
窓に映った彼はお盆を抱き締め泣きそうな顔をしていた。
だから反論しようと振り返る。

「はぁ?お前何バカなこと言ってんの」
「だってショックだったんでしょう。兄ちゃんが結婚すること」
「なんで?どこにそんな証拠があるんだよ。大体ショックだからってどうして好きに直結するんだ」

腹が立つ。
何の根拠もなく、いきなり突拍子もないことを言い出した春平に苛立った。
まるで心の中を土足で踏み荒らされた気がしたからだ。

「僕、知っています。桜斗さんが兄ちゃんを好きだったこと」
「だからっ」
「冬桜の約束もちゃんと覚えています。だから桜斗さんは真っ先にあの場所に来たんですよね。兄ちゃんの為に」
「……っ……」

(なんだコイツ)
俺は目を見開いた。
腹の底が煮える音がする。
なんて無神経で馬鹿馬鹿しいことを言うのだろう。
気付けば枕を彼に向かって投げていた。
それが直撃すると、彼の体は尻餅をつく。
お盆とグラスが絨毯の上に落ちた。
幸い空だったせいか濡れていない。
コロコロと転がったグラスは彼の足元で止まった。

「いいからさっさと消えろ」
「!」
「気分が悪い。今すぐ俺の前からいなくなれっ――!」
「…………」

それでも彼はじっと俺を見た。
その視線が癇に障る。
眉を下げ、目尻に涙を溜めて怯えているのに背けようとはしなかった。
それが反抗的に映って虫唾が走る。

「……お前が出て行かないのなら、俺が出て行く」
「あっ」

俺は着せ替えてくれたであろうパジャマのまま飛び出した。
コートも財布も持たずに部屋をあとにする。
そしてそのまま塚田家を出て行った。
真冬の寒さが身に染みる。
だが内なる怒りに体は燃えていた。
胸焼けと頭痛が俺の怒りに油を注ぐ。
思わず電柱の傍にあったプラスチックのゴミ箱を蹴り飛ばしていた。
どこまでも無音な世界に乱暴な音が響く。
だがそれもすぐに無へと還っていった。
――どうしてこんなに腹が立つのか。
(そんなの知れたこと)
俺は悴む体を気にもせず夜の街を突っ切っていった。
辿り着いたのは高台の冬桜の下。
俺と春平であろう二人ぼっちの足跡が木へと続いている。
つまりあれからここには誰も来ていない。

ひゅううう――。

街より高いせいか風が強かった。
吹き付ける北風は冬の匂いを残している。
指先から腕へと鳥肌が立ち震わせた。
さすがにこの時間、パジャマ一枚では寒すぎる。
だからといって戻る気にはならなかった。
極限の寒さがこめかみに伝わり頭痛が麻痺する。
吐いた息は絹のように白く流れた。
さざなみのように揺れる木々は白く浮かび上がって見える。
暗闇の中、雪の白さを浴びた花は反射して光っていた。
まるで花びら自体が発光しているような錯覚を起こす。
あまりに幻想的な光景に息を呑んで立ち尽くした。

「……ふ……っく……」

途端に涙が溢れるのはなぜだろう。
俺は冷えた指先を力の限り握った。
力みすぎて有り余った力が震えに変わる。
俺は吸い込まれるように木の下へ歩み寄った。
そして木の肌に触れる。
俺が手を回したとしても届かない幹は強い風の中じっと耐えていた。
時折吹く突風に枝がしなる。
(何泣いているんだよ)
俺は木に体を預けるように泣いていた。
凍った肌に流れる涙は温かく熱を持っている。
濡れた筋に風が当たると産毛が揺れた。
歯を噛み締めるがどうしたって止まらない。
だから何度も拳を握って木に叩きつけた。
成人した男が真冬の深夜に何をやっているのか。
見るからに滑稽で笑えた。
だがどうしても笑う気力がない。
泣いたって仕方がないことだ。
いや、泣いたら春平の言葉を認めてしまうことになる。
それが悔しかった。
こんな醜い自分は誰にも見られたくない、知られたくない。

「くそっ……くそうっ……」

悴んだ手が痺れるように痛い。
だがそれ以上に胸が痛かったから気にならなかった。
この痛みはずっと前から知っている。
それを伴って生きてきたのだから知らないはずはなかった。
最初に感じたのは中学二年生の時。
――そう、俺あてに一枚の手紙が届いた日のことだ。
俺は差出人を見て顔を緩めた。
嬉しくて嬉しくて鼻歌交じりに手紙を開けたことを覚えている。
だけど内容は自分の期待していたものではなかった。
手紙に書かれた汚い字は相変わらずである。
だけど最後に一枚のシールが貼られていた。
それは所謂プリクラという、俺たちの世界には必要のないものだった。
頬を緩ませてピースをした浩平が写っている。
あの頃の浩平は今の春平にそっくりだった。
道理で最初に彼を見た時、胸に痛みを覚えたはずである。
そしてその隣には――。

「ひっぅ…ざけんなっ……」

思い出しただけで涙が止まらなくなった。
噛み締めるように過去を振り返った時、俺は再び絶望の底に突き落とされる。
だから今までずっと忘れようと努めていた。
それから電話も手紙もしなくなった。
同じ思いをするのが怖くて友達も作られなくなっていた。
ひとりぼっちの都会は、人で溢れているぶん孤独の影を作りやすい。
それでも心のどこかで何かを期待していた。
次に会った時、何かが変わるのではないかと淡い希望を抱いていた。
今回貰った手紙にはどうしても会って話したいことがあると書かれていたのだ。
家に泊まらせてくれるし、電車賃も同封されている。
それを見て期待を抱くのは浅はかだろうか。
もう一度ゼロから始められると思ったのは馬鹿なことだろうか。
(今度こそ約束が果たせると思ったのに)

「……はぁ……はぁ……っ桜斗さん……」

すると泣き崩れる俺の耳に小さな声が聞こえた。
静かな大地はその声を反響させる。
俺は気付くと叩くのをやめた。
そして泣き顔のまま振り返る。

「――ああ、そうだよ」

その顔を見た春平は目を見開いた。
よほど酷い顔をしていたのだろうか。
しかしそれもすぐに変わった。
顔を歪ませた春平はその場から動けず俺を見つめる。

「お前の言った通りだ」
「え……?」
「俺はずっと浩平が好きだった。きっとここに居たときからずっとアイツが好きだった」

認めたら負けだと思っていた。
失恋と同時に初恋に気付くなんて愚の骨頂である。
何より自分の気持ちを疑いたかった。

「ありえないだろ……。男が男を好きになるなんて」
「……っぅ……」
「そんなっ、馬鹿なこと…っ…そんなっ」

俺はずるずると座り込んだ。
そして地面に叩き付けるように手を振りかざす。

「そんなのあってたまるかよ――っ」

だから友達を作るのが怖かった。
だから浩平に会うのが怖かった。
感情をコントロール出来ない自分が一番怖かった。
テレビの向こうにいるオカマを嘲笑うことが出来ない現実。
自分にとっては遠くの世界だと思っていたのに、気がついたら同じ穴のムジナになっていた。
……なんて、ネタにすら使えない。
マイノリティなんてクソくらえだ。
気付かなければこんなに醜い自分と対面しなくて済んだのに。
浩平は誰より大切な親友だった。
だけどそれ以上の感情は必要ない。
そうすればこの嫉妬も悲しみもゴミ箱に捨てられたのに。

「桜斗さん」

すると雪を踏み締める音が聞こえた。
虚ろに顔を上げるとコートを持った春平が近付いてくる。
だから顔を背けた。
曝け出した自分が格好悪くて情けなかったからだ。

「もう俺のことなんて放っておけよ」

むしろあれだけ酷いことを言った。
昂ぶっていたからといって年下の子供に八つ当たりをしてしまった。
しかも初対面に等しい相手だというのに。

「いいえ。僕は桜斗さんを放っておきません」

するとすぐ傍で人の気配がした。
そっと肩にコートを掛けられる。
驚いて振り返れば春平がしゃがんでいた。
鼻の頭を赤く染め白い息が途切れることなく流れ続ける。
俺にホッカイロを渡した。
雪で濡れた手にじんわりと染込む熱が心地良い。

「どんなに文句を言われようと無駄です」
「なんだよ、お前。なんで俺なんか……」

すると春平が俺の手に触れた。
温かな手は柔らかく俺を包み込む。
そのままぎゅっと握ると自分の方に寄せた。
つられて視線が彼の手を辿る。
その先に見えたのは顔を真っ赤にした春平だった。

「あ、あ、あのっ……」

鼻の頭だけじゃない。
頬を赤く染めた彼が俺を見ている。

「え?」

気付けば春平の手が震えていた。
雪に埋もれそうな二人が木の下で固まる。
その間を通り抜けていく風は容赦なく吹きつけた。
さざらう木に花びらが舞う。
俺と春平の下へ雪のように降ってきた。
彼の頭に花びらが落ちる。
だけど気付いていなかった。
春平は思い詰めたような表情で俺を見つめ続けている。

「っぅ……ぼ、ぼ、僕じゃだめですか?」
「え……」

意を決した春平の迫力は凄みがあった。
何をいわれたのか分からず目を丸くする。

「ぼ、僕じゃ……兄ちゃんの代わりにはなりませんかっ!」
「は――……」

それ以降の記憶はなかった。
二度目の失敗はこんな薄着で外に出たことに要因があるに違いない。
俺は訳もわからず意識を手放した。

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